ヨガ思考

”普通”=”ふつう”=いいこと・・・?

「ふつう」であるということ

 

子育てに関する相談を受けていると

「ふつう」という言葉の持つ意味を考えることが少なくありません。

支援する側として、架空のケースを挙げて

考えてみたいと思います。

 

 

普通って何だろう?

 

障害のあるお子様を持つ保護者の方との相談において、

  1. 「不妊治療をしたから障害を持ったのでは」
  2. 「普通の子の子育てをしてみたい」
  3. 「健常の子の子育ては楽そう」

 

という心境を吐露される場合があります。

また、

  • 「はっきりと障害があると断定して欲しい」
  • 「グレーゾーンは大丈夫と思われたくない」
  • 「見た目で分かる障害とそうでない障害によって、世間の目が違う」

 

という想いが語られる場合もあります。

 

これは、

障害者手帳を持つか、持たないか、ということに関して、

”本人の視点”で、捉えることができるかどうか、にもつながっていきます。

 

子どもに関わる大人たちが、大人たちの都合であれやこれやと

意見する現場に立ち会うことが多かったことがありました。

そういう時、”ふつう”な人ってどこにいるのか?

”ふつう”であることは、どういう価値があるのか?

自問する私がいました。

 

 

「様子を見ること」の功罪

 

乳幼児の発達検査において、

 

問題を指摘されたのに→よくなった

問題を指摘されなかったのに→悪くなった

という場合があります。

 

また、「健診では、様子を見て・・・」と言われたから、

 

問題はないと思った

別に相談することはしなかった

という方も多いです

 

 

一方で、「どうしたらいいか?」という

保護者のしてのモヤモヤはどこかでくすぶっています。

 

 

 

子どもの成長を見通すことは大切ではありますが、

その道のりを1つに限定して見通すことに疑問が残ります。

 

どんな人生もかけがえのない人生であり、その奇跡は言葉では

言い表すことができないもの、と私は考えています。

 

その人生が、一本真っ直ぐな道であることは

素晴らしいことなのでしょうか?

 

例えを変えます。

電車の乗り換えを検索すると、色々なパターンが出てきます。

時間が早いもの、乗り換えの回数が少ないもの、

乗車券が安いもの・・

結局、どれを選ぶか、という点では異なるものの、

何か1つのものへつながっているという点では

どのような人生も同じだと考えます。

 

専門家、と言われる方々が、

「どんな風に様子を見ていくか」を具体的に見通して指し示すことは

時に素人のような発言であったり、

1人の人間として、個人的な意見を述べたり、

論文や文献、経験から言えることを説明したり・・・と、

おそらく論理的ではない、雑多な助言であるように思います。

つまり、支援のあり方や子どもの成長やどういうところへ相談して行くのか、

ということは、電車の乗り換えを3つ以上伝えることと似ていて、

1つの真っ直ぐな一本道を指し示し、誘導することではないと思います。

 

 

 

ですから、「どんな風に様子を見ていくか」という軸を持って、

真摯にお伝えしていき、試行錯誤を繰り返しながら、

保護者自身が自ら選択していけること

その判断材料として、子どもの特徴を共通理解すること、が望ましいのではないか、

とも考えています。

 

困った子は困っている子

 

よく支援する側の先生方から、

「Aちゃん〜をするのでどうしようかと・・」

「Bくんって〜すること、やめられないのですか?」

「保護者の理解が得られなくて、支援体制が整わない・・」

と、往々にして感情的な表現で、子どもたちの特徴を話し合うことがあります。

 

私がそのような場に参加していた場合、

その時に決まってお伝えしているのが、

「子どもたち自身は、どんな風に困っていますか?」ということ。

・みんなの輪の中へ入って行けないこと

・学校を休んでいること

・勉強をしないこと

・かんしゃくを起こしていること

これらの状況をその子自身がどんな風に感じているか、

これが大切だと思っています。

 

理解力(知的水準)が低い、と言われる子どもであっても

表情で気持ちを表現することが不得手な子どもであっても

は必ずあります。

その心に集中して、支援を考えていくと、必ず子どもの変化=成長があります。

 

Aくんのマイルール!できないことはやらないの!

 

あるご相談をもとに、架空の事例を挙げ、考えてみましょう。

 

 

高校2年生の男子、Aくんは、小学校の時にASDの傾向があると

診断され、それをきっかけに特別支援学級への転学を検討します。

しかし、知的水準は高く、平均的であったため、

通常の学級に在籍し、転校することなく、

過ごしてきました。

 

発達障害に理解のある学校と定評のあった高校へ、

自宅から遠いものの、進学しました。

板書する量を軽減する、宿題は締め切りをすぎる場合には

自己申告するなどの合理的配慮をもらい、

定期試験はなんなく乗り越えていました。

しかし、クラスメイトの顔も名前も覚えられず、

学校行事の準備は全くしません。

合唱の練習に参加することや出し物(そのクラスでは簡単なダンス)の練習へ

参加することは断固拒否。

別室に逃げて鍵をかけて、立てこもることもしばしば見られました。

 

担任は参加を無理強いせず、見守っていましたが、

本番は参加を促すか、迷っています。

その点について、保護者と相談する機会がやってきました。

 

 

保護者:「うちの子は、できないことや苦手なことは、完璧にできると分かるまで挑戦しません。おそらく本番も参加はできないでしょうから、別室か、遠い席から参加にしてもらっても良いですか?」

 

担任:「学校行事ですし、何らかの形で参加したということを体験して欲しいですし、学校行事にせめて価値を見出して欲しいのですが・・・」

 

保護者:「いつもたくさんの配慮をしてもらっていて、感謝しています。ご迷惑をおかけしてすみません。当日は休ませた方が良いですか?」

 

担任:「いいえ、そうではありません。新しいことにチャレンジをすることは、今後、社会に出るために必要なことだと思っています。練習の場に連れてきて、参加させる方法を考えたいのですが・・」

 

保護者:「チャレンジって、本人が望んでいないから、難しいと思います。できない子、と私は理解していますし、無理強いしてパニックにでもなったら大変なのは先生ですよ。正直、大学進学さえできれば良いと思っていて、友人関係は諦めています。」

 

担任:「困った時に誰かに助けを求めることや返事をすることを身につけていくことも大切だと思っているのですが、感情の起伏が激しく、いつも叱っているようになっていて・・・」

 

保護者:「ですから、多くは求めません。当日は欠席します。成績に何か関係ありますか?」

 

・・・・・

このやり取りを読み、何を感じますか?

 

このやり取りの大きなポイントは、担任が学校での状況を保護者に伝える場面で、

相談が愚痴の報告になっている

具体的な状況が結局見えてこない

当該生徒がどうしたいのか、という気持ちの確認がない

 

という”子ども視点”のカケラがないことです。

 

これでは、何のための面談だったか、分からずに、終わってしまいます。

 

ASDの特徴として、自分の気持ちの表現が不得手であったり、

言葉で表現せず、パニックを起こして泣き叫ぶなど

激しい行動によって突然爆発させることがあります。

 

多くの場合、表情や動きで支援する側がその子の感情を理解することは

とても難しいことがあります。

そのため、何か身につけて欲しいと、課題(ソーシャルスキルトレーニング )を与えたとしても、

取り組んでくれず、途方にくれる日々が続くことがあります。

 

なぜ、途方に暮れるのでしょうか?

 

人生の主人公は誰か?

 

先に示した、支援する側の訴えのうち、

特に「保護者の理解が得られなくて、支援体制が整わない・・」という場合、

多くのケースにおいて、

”自分の思う通りに子どもは動いてくれない”という

支援者側の気持ちが悩みの中に、たくさん詰まっているような気がします。

 

 

子どもが自分のいう通りに動いてくれることは、

どういうことを意味しているでしょうか?

 

”誰かのために尽くしている自分”に酔いしれていないか?

”まるで自分の我が子のように、自分の自由になるモノ”として扱っていないか?

”私がいなければ良くならない”という幻想の中にいないか?

 

ふと立ち止まって支援内容を検討する時、

自分のあり方に目を向ける方は、少なく、また、大変難しい作業のように思われます。

 

やや強引に手を引っ張っても、子どもが”No:ノー”とは言えない

障害が重たいケースや感情の起伏が激しく、信頼関係を結びづらいケースにおいて、

いつしか忘れてしまう”自分(支援する側の人間)の奥底の感情”

 

支援する側は、どなたか仲間や相談相手や愚痴をいう相手を

見つけておくことが重要です。

それは、研修にたくさん参加して、知識をインプットすることではなく、

自分の行なっている支援を客観的に見る力をつけること、

それは、まさに

自分自身を知るツールを増やすことです。

 

誰のための支援?

 

人と人との出会いは、本当に驚きと感謝が詰まっています。

支援する側は、支援を必要としている相手と出会えたことに

もっと感謝する瞬間があっても良いのでは?と、思うことがあります。

ただ、優しさだけでは誰かを救うことはできません。

もしかしたら出会った数分後に、死んでいるかもしれない。

子どもの障害や精神的な病、に向き合うということは、そういうことだと思っています。

実際、私も悲しい別れを経験し、未だ乗り越えらない気持ちを抱えています。

 

 

そして、「何かしてあげたい」という気持ちが、

自分の満足感を埋める材料になっていないか、

いつも振り返りながら、支援の方針を考えています。

 

その子自身は日々成長している。

そして、相手を信じ、真摯に”その場を安定させるための存在”として、

その場に必ず在るということ。

 

 

支援とは、根気と時間と誠意が必要です。

 

補足;ケースの対応方法

 

先ほどのケースにおいて、もし私が関わるならば、

保護者ではなく、彼本人ととことん向き合うだろうと思います。

高校生ですし、どういうことが嫌で、何をしたくて、どう感じているのか、

一緒に見つけていくと思います。

それには、嫌な活動を点数づけをしてランキングにしてみることや

絵を描いてバツをつけて判断してみる、選択肢を与えて行動を選ばせてみる、

活動に参加しないならば、何をするか、考えてみる・・・など、が考えられます。

 

何もアイディアが出てこないASDの彼の表情をずっとずっと

見続けて、繰り返す沈黙の意味も十分に味わってから考えます。

 

きっとその繰り返し(沈黙や支援の方針が見通せない時期を歩むこと)は、

意味のある大切な時間ですから、

誰にも譲れないかけがえのない支援という貴重な時間を嬉しく感じるでしょう。

 

 

保護者に対しては、障害の理解を促すということよりも、

子どもがどんな発言をどんな風にしたのか、詳細を報告します。

そこから保護者の希望を丁寧に聞いていきます。

自分から提案するとしたら、

「もしかして・・・Aくんは〜と言いたかったのかな」

と、常にAくんの世界に立って、世の中を見てみる作業をしてから、

お伝えします。

 

保護者が障害を認める認めない、に関わらず、

支援は今すぐスタートできるので、

今からAくんの観察記録をつけていき、振り返ります。

学校行事の参加の仕方を提案する前に

何気ない日々の彼の素晴らしさや頑張り、

不得手だと思っていてことを乗り越えようとする姿を

報告してから、支援の方針を提案することは絶対的に必要です。

何気ない日々に支援の方針を計画するための方法が詰まっているからです。

 

 

 

ヨガインストラクター、放課後等デイサービス、学童職員、学校の先生・・・

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届けたいこと

 

 

唯一無二の「自分」に出会う

一生懸命生きてきたはずなのに、ふと無力感に追われる・・

こんなになんで忙しいんだろう?と疑問に思う・・・

 

教育の現場で長く働いていると、そういう気持ちを持つ<先生>に出会うことがありました

また、子育てに悩む保護者の方々が、”自分らしい人生”を送れていないことにも気づきました

 

専門知識を深めて、仕事にも自分の人生を豊かにすることにもつながるための

講座と相談をcandrika promovel では広げています

 

臨床心理士・公認心理師・ヨガ講師(RYT500およびキッズヨガ 、MBSR、アンガーマネジメントなど多数の研修資格を取得)の太田千瑞が

自由自在に生き抜く方法を皆様へお届けします